日記

無くなるものと、無くならないもの

今日は土曜日。

月曜日から金曜日まで仕事なり学校に通い、やっと休みだという人が多いだろう。無職になり、曜日とはごみ捨てと格安スーパーの営業日をのぞいてほぼ無縁の生活ではあるが、土曜日はなんだか気分がいい。これは今までの生活で染み付いた条件反射のようなものなのかもしれない。

毎週土曜はだいたい配信を休んで、日曜日は雑談という生活を長いこと続けているので、その影響もあるだろう。

ただ、日曜日の夜の憂鬱さは早々に消し飛んだ。しいて言えば、翌朝可燃ごみを出す日なので早起きをしなければならなず、それが面倒だと思うくらいだ。

仕事がなくなって生活が変わった。

ここのところ気になっているのは、人と話す頻度が大きく減ったことで起きる変化だ。会社員をしていた頃は、平日は必ず誰かしらと会話を交わしていた。仕事のことが主になるが、雑談をすることもあった。

今は、ほとんど誰とも会話していない。この一週間で人に対して発声したのはおそらく三度だけだ。格安スーパーでトマトを箱買いして、それを無理やりリュックに詰めていたら、レジのおばちゃんから「大丈夫かい、無理するねぇ」と言われたのに対して「大丈夫です」と答えたのが一回。近所のスーパーのレジのおばちゃんに、「袋ください」といい「かしこまりしたー」と返事が帰ってきたのが二度目。三度目は、無職の説明会で名前をお願いしますと言われて返事をした。以上だ。

この三度しか人に対して発声していない。一度きりの往復でも会話と読んでも良いのかわからないが、これらの行為は会話というよりは発声として分類したほうが良さそうだ。

では、一週間のうちで声を出したのはこれだけだったかというとそうではない。インターネット配信を週五日ペースでしているので、話している言葉の量自体は日本人の平均を上回る可能性もある。

フィジカル的に声を出しているのは声帯で、この生活スタイルなら声帯が衰えていくことはないだろう。過去にどこかで長いこと引きこもり生活をしていると声帯の筋肉が衰え、まともに声自体がだせなくなると聞いたことがあるが、それとは無縁そうだ。

実際の人間と面と向かって話すのと、チャットを読んでコミュニケーションを取ることはどのくらい違うのだろうか。人と面と向かって話すときには、相手の顔を読むことをするが、それがないのが大きな違いだろうか。自分で言うのも何だが、どちらかというと人の顔を読み、相手がどう思っているのか予想するのは得意だ。今のままの暮らしをしていると、どこかのタイミングでこのある種の能力を失うのかもしれない。それ以外にも何らかの弊害があるのかもしれない。

まあ、今のままの生活をしているのならばその能力がないことで困ることはなさそうだが、今後失われうるものの一つだ。

これからなにを得て、なにを失うことになるのか。楽しみでもあり、恐ろしくもある。

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