5年ぴったりで外資系企業を退職した話。31歳、3回転職、今無職 3/6
2019/03/05
Contents
さわり
今回は、新卒で働きはじめた会社を1年と少しで辞め、外資系企業で働き始め、そして辞めるまでの話。あらかじめ、以下を読んでおくと内容の理解がしやすいので、先に読んでおくことを推奨する。
連続記事の頭「31歳、転職を繰り返し、会社を3つ辞めて無職になった話。1/6」は、こちらから。
前回の記事「1年と少しで新卒で入った会社を退職した話。31歳、3回転職、今無職 2/6」は、こちらから。
外資系メーカーで働きはじめる
外資系メーカーへ転職したのは、社会人生活2年目、24歳になったばかりのときだった。今度こそ退屈しない、満足できる仕事ができるかもしれないと思っていた。
入社後半年間は研修期間だった。営業として入社したが、座学よりは実際に製品に触れる研修がほとんどだった。もともと不器用なので作業自体は苦戦したが、製品やその後の実務につながることを多く学べた。研修ということもあり、ほとんど残業もなく平和な生活を送っていた。
オフィスには本社や海外拠点から同僚が頻繁に訪れていた。 その時には、面と向かって外国人と話した経験が殆どなかったのでやや緊張した。
ほとんど社内で行われた半年の研修を終えて待っていたのは、アメリカ一ヶ月滞在の海外研修だった。プライベートでも一度も海外に行ったことがなく、パスポートさえ持っていなかったので、この研修は自分にとってちょっとした冒険だった。
大学生の卒業旅行の定番は海外だが、「最初の海外は働き始めてからの海外出張にする」なんて冗談半分で言いながら、私はどこにも行かなかった。それが働き始めてあっさりと実現した。英語で仕事をするというのも、学生時代それほど興味はなかったが就職活動の面接でポイントになると思い言い続けて、現に実現した。言葉に出すことの効果は案外あるのかもしれない。
アメリカで必要な知識を得たり、面識が増えたのは良い経験になったが、一番記憶に残っているのは、米国到着翌日に行われたパーティーだ。もちろん私の歓迎会ではない。誰かが退職するということで開かれたものだった。パーティーということで会場は騒がしく、ほとんどの人が酒を飲んでいた。更に米国到着後二日目ということでひどい時差ボケに悩まされ頭も回っていなかった。その影響か、ほとんどの人との会話の内容が半分も理解できなかった。
理解を阻害する要因はたくさんあったが、それでもこれほどまでに理解できないとなると、それから続いていく1ヶ月に不安を感じずにはいられなかった。翌日以降、本格的な研修旅行が始まり沢山の人達と話した。泥酔状態でなく一対一での会話なら、なんとかなったのでそっと胸をなでおろした。
一週間もすると時差ボケも解消され、現地の生活にも慣れてきた。大抵の食事は美味しく感じられ、会話も少しずつできるようになってきたのを感じた。はじめての海外ということを現地の同僚も知っていたので、手厚く歓迎してもらえたのはいい思い出だ。
仕事のはじまり
研修を終えると本格的な業務がスタートした。仕事の詳細についてはブログで書くことができないが、日本の顧客と本社や他拠点の間にたってプロジェクトの進行管理をするのが主な業務だった。ほぼ毎日がトラブル続きではあったものの、やりがいは感じられた。残業も徐々に増えた。それでも19時前には帰宅することが多く、無理なく働いていたように感じる。
二年目以降は、一人で客先に訪問することも増え、仕事の中でわからないことがだいぶ減ってきていた。業務の忙しさもそれほど変わらなかった。
ただ、苦労したのは海外出張だ。最初の研修旅行以降、海外には良い記憶がまったくない。海外に行かなければならないのは、問題が発生してすぐに助けが必要な場合か、新たなビジネスチャンスの獲得を目的とした場合に大別され、どちらも負荷がかかる。そこにさらに日常の業務が積み重なるので、毎日が時間との戦いだった。
自分の枕でないとよく眠れない軟弱気質なので、長期の出張は肉体的にも精神的にも堪えた。研修旅行のアメリカに始まり、中国、台湾、メキシコ、ブラジルとたくさんの国に行った。短いものは一週間、長いものは一ヶ月を超えた。
半年に一度くらいどこかに行く頻度だったので、それほど多くはなかったのがせめてもの救いではあった。
意識が高かった学生時代なら手放しで素晴らしい経験ができたと言っていたところだろうが、このとき既にそんな高い意識はどこへやらで、もっと楽に働きたいと感じ始めていた。
変化
そして、四年目に変化が訪れた。配置転換でそれまでと少し異なる仕事をはじめるようになった。今までの業務より、質も量も上だった。残業も増えて、内容も複雑化した。早朝深夜に行われる電話会議も増え、睡眠時間も日に日に削られた。
睡眠時間が削られるとストレスがたまり、ストレスがたまるとよく眠れず睡眠時間が削られる悪循環に陥っていた。そんなストレスからの逃避行動としてはじめたのがインターネットゲーム配信だった。ゲーム配信をしているときには余計なことは何も考えずにただただゲームをすることに没入できるので、考えたくないことを意識から締め出すのには都合が良かった。夜遅くまでゲームをすることもまた、睡眠の質を下げる要因であることはわかっていたが、その日その日を乗り切るためにはせずにはいられなかった。
この疲労感と、もう一つとあることが合わさり、退職を考え始めるようになった。前回の新卒で入った会社を辞めた記事においては、かなり詳細まで書くことができたが、残念がらこちらはすることができない。業務に深く関わり守秘義務のようなものがあるからだ。ただ言えるのは、倫理的な問題であったということだけだ。これが限界のライン。
退職後の計画
そのかわりと言っては何だが、ここでは会社をやめたあとどうするか在職中に検討したことを振り返っていきたい。
新卒の会社を退職したときには、次の職場が決まり、そちらを選択することで未来に大きな不安なく辞めることができた。次が決まってから辞めるというのが、基本的な転職のルールだろう。まずは、転職を検討した。
退職願を出す前に、一つ転職の面接を受けた。かなりの圧迫面接だったと記憶している。それもそのはず、暑い上に荷物になるからとスーツのジャケットを着ていかなかった。季節は少し汗ばむ五月初旬だっと記憶している。一応ネクタイはしていたが、部屋に入った瞬間のギョッとした様子とその後の高圧的な態度は幾分かその影響があってのことだろう。 あっさりと落ちて転職のモチベーションもほぼなくなっていた。
そんなふうにあまり熱心に転職活動もせず、転職以外の道はないだろうかと考えるようになった。
ちょうどその頃、インターネット配信で高校生のお小遣い程度の収入は得られるようになっていた。もしかしたらうまくいけばそれでなんとか食っていけるくらいにはなるかなと頭の片隅でちらりと思ったことがあったが、すぐに非現実的ということで消えていった。
別の案として、貯金で切り抜けることも検討した。同年代よりは貯金は多く貯まっていたので、それを切り崩しながらしばらく生活することを考えるも、それも長期で考えるとさすがに無理がある。
そこで目に入ってきたのが、職業訓練校という選択肢だった。職業訓練校というのは、就職に役立つ勉強を失業保険のようなものをもらないながら通える学校のことだ。しばらくの収入が得られる上に、新たな知識もつけられる一石二鳥のとても良い選択肢に見えた。なにか別のスキルを身に着けて別の方面の仕事をするのも面白そうに見えた。
ただ、一度レールから外れて職業訓練校にいくことになれば、今まで勤めていたような待遇の良い大企業に戻ることを難しそうだとも思えた。転職の回数も同年代に比べれば多いし、すぐに辞めるという印象はたいていの企業からマイナスポイントとして見られることのほうが多いだろう。
しかし、それでも職業訓練校という選択をしようと思った。なぜならば金はそれほど重要ではないと感じはじめていたからだ。当時の収入が同世代の倍ほどあったことも影響しているが、金を普段の生活でもほとんど使うことがないため貯金は増えていく一方だった。このしんどい業務の対価として金が得られているわけだが、果たしてこの使ってもいない金を得るために労働をする価値があるのだろうかとも思いはじめた。
もちろん最低限の収入は生きていくためには必要ではあるが、それ以上を望む必要はあまり感じられなかった。病気になったときや、いざというときということも考えたが、今ある貯金が消えるほどの大病にかかれば会社はどうせ辞めることになるだろうし(しばらくの間、休職でつなげたとしても)、あまり未来の予測不能の事態の心配をしても仕方ないと思った。
とりあえずの次の選択肢が見えたので、上司に退職の意を伝えた。やはりどんな企業をやめるときであっても退職交渉は存在する。上述したとおり、バリバリ働くことに限界を感じているので、辞めたいと伝えた。それに対して、何が変われば続けられるかと質問をされたので、労働時間の変更と答えた。
ばかげた話のように聞こえるかもしれないが、私が要望したのは週五日の勤務から四日に変更することだった。今でも思うことではあるが、五日間働いて二日しか休みがないのでは体が持たない。もちろん給料はそのぶんか、それよりも少しばかりか低くなっても構わないとも伝えたのだが、やはり受けいられなかった。
業務の性質上、ひと工夫なしに実現は困難な部分もあるが、裏を返せば会社にとって就業規則を変えてまで雇っているほどの人材ではなかったということだろう。このようにしてこちらの要望は受け入れられず、退職の運びとなった。
結びに
精神的、肉体的に追い込まれたときに他に逃げ込む先を探すというのは、新卒で入社した会社をやめたときと同じだ。その組織内で、自分にとって良い環境を作るために声を上げるよりは、逃げるのを好んでいるのだと思う。
こうして、ちょうど5年間働いた外資メーカーでの生活も終わりを迎えた。しばらくの無職期間を経てからの、職業訓練校に通っていた時期の話は次の記事にて。5年ぴったりで外資系企業を退職した話。31歳、3回転職、今無職 3/6