日記

冬でも半ズボンの良さはどこにあるのか。行動とその理由。

半ズボンは着心地がいい。膝小僧の上に少しかかるくらいがちょうどいい。

冬でも可能なら半ズボンを履いていたい。 確かにちょっと寒いと感じることもある。それでもなお半ズボンなのだ。

理由はいくつか考えられる。

他の人よりも寒さに耐性があり、長ズボンをそれほど必要としていないのかもしれない。冬場でも上着をそれほど着込むことをしないし、マフラーや手袋のような防寒具もあまり使わない。めんどくさいという理由でもあるが、やはりそもそも必要だと感じていない可能性がある。

次に考えられるのは、衣類の接触の不快感だ。どうも足全体に衣類がまとわりつくのは心地が良くない。特に自宅でリラックスしたい時に、その感触で不快感があるのは断じて許されない。更に足首をゴムで絞っているタイプはよろしくない。あの締めつけ感がどうにも好きになれない。防寒という観点では優れているのかもしれないが、そこに足首があるのを感じさせるような構造というのはいただけない。

他にも、長年の習慣というのも考えられる。思えば子供の頃から寝るときは上着に限ってはかなり防寒対策をしていた。上は、下着のシャツ、シャツ、セーター、トレーナー、はんてんという完全防備だった。その一方で下は、パンツ、長ズボン、以上という構成だった。それを自ら選択したのかそれとも、親の影響を受けたのかわからないが、長い間続いている習慣というのは無意識のうちに続けてしまうのかもしれない。

きっと他にも考えればそれらしい理由は見つかると思う。自分らしさだとか、実は機能性に優れているだとか、放熱のためだとか。

その一方で、いったいどれが自分の行動に最も影響をもたらしているのか、あるいは本当の理由と呼ばれるものなのかは判別がつきにくい。どちらかというと行動や判断ありきで、その帰結として理由を生み出しているように感じる。

人から理由を聞かれるときに、自分が何を考えているかよりは、おそらくこう答えれば、それなりに説明として通るだろうということを答えるような習慣があるせいかもしれない。これは自分に限ったことではないだろうが、会話において、それが真実がどうかよりは相手が納得感が得られる答えをするようにしている。相手が納得しづらい説明をして、コミュニケーションが取れていない不快感が生じるよりよっぽどいいからだ。

そんなふうに会話をしていると、果たして自分でも何が事実で何が事実でないかということがわからなくなってくる。洗脳の手法にもあるように、言葉にすることは自分の考えや行動に影響をもたらす。その言葉をつぶやくと、それがあたかも真実であるかのように感じる。一種の自己暗示のようなものだと思う。

更に、その回答は相手によって変わりうるので、ことはさらに複雑になる。どこまでの背景事情を知っているのか、何を相手が気にしているのかを考えて、前述の通り相手の納得しやすい答えを返すしている。そうすると自分の行動の理由を、場合によっては会話をした相手の数だけ生み出して、結局自分でも何がなんだかわからなくなる。

そんなふうに答えるから混乱を生じさせているというのは事実ではあるし、やめたらいいのではと思われるかもしれない。しかし、その処理は無意識で行われているので、強く意識をしないと変化させることはできないだろう。これは自分が長年生きてきて得た習慣で、人間関係で面倒ないざこざを起こさせないようにする有効な手法として確立したものだ。

以前は自身の行動の理由や説明の難しさを感じることもあまりなかったが、ここ数年意識するようになった。それがなにか問題かといえば、そうでもないわけではあるが少し気になっている。

行動するときに事前に考えることをやめて直感にまかせているのか、以前は自分の行動や考えに確固たる理由が描けていたのかはわからない。それとも、今は単純に自分自身の行動に正しいという自信が持てないせいなのかもしれない。確固たる自信が持てないゆえに、それ相応の理由の説明が自分自身に対していついていないことも考えられる。

別段こだわりもなく履き続けている半ズボンも、いつか履かなくなる日がくるのかもしれない。きっとその理由もわからないだろう。

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