終わらない文章。
一つの文章の中に動詞が5つ以上入ると、意味の理解が困難になるなんて言うことを聞いたことがあるが本当だろうかと思っている。口語的に意味もなく文章が続くことは実は案外悪いことではなくて、ただただ続く文を読むことは個人的には嫌いではなく、ときに意味がわからなくなることもそれそれはそれでいいかななんて思うこともあったりするけど、やっぱり論文的な文章では厳しいかなあと思うけど、結局論理的に破綻している文章だってしていなくたってどっちも意味が無いんだから細かいことは言わずに好き勝手書くのは決して悪くないはずだ。
論理的な思考やら考える技術書く技術とか昔読んでそれっぽい文章を書くことを心がけていたこともあったけどなんというかこちらがそこまで道を整えてあげなくったって読み手を信じてあげれば、大方わかってくれるだろうし、別にわからなくても良いことしか書いていない以上それも良いわけで、俳句の終わりにそれにつけても金の欲しさよをつければどんな俳句だって面白く結べるといっていた母の言葉の意味がわからなくたってそれでいいんだ。友人がホームラン級のバカでまともに言語を介してコミュニケーションが取れないのはその言語ではなく、その人間の程度な理解力と認識力、表現力に依拠するわけなので、一人自分だけで正しい、あるいは正しいであろうと思われる文章を書くことだけでは意味がないし、気持ちよくなれないので気持ちよくない。
気持ちよくなれることを重視して生きることを24歳位のテーマとして掲げて、ほぼ毎年こんな1年を迎えたいなんて思っていたけど、今年の目標は何だったかイマイチ覚えていないし、そもそも何かを祈ったかだってわからない上に、わかったところで実践する気もなければ実践できたところで何か自分にとってメリットがあるのかわからなければ、メリット言う言葉で片付ける程度の単純なものであれば無視して良いような話であろうと思うわけで、しまいに覚えている唯一の今年の初詣の思い出といえば、きたねえ屋台でわけの分からないたい焼きのクリーム版みたいなのを柴田が3つセットで買って4人いたから俺は腹がいっぱいだって適当なことをいって食わなかったことで、そのときはちょっと後悔したような気もするけど、まあ実際問題クソどうでもいい冷めていないことだけが、温かいことだけが唯一の売りであるたい焼きもどきに過ぎなかったんだと思う。
そもそもクリームみたいなものをたい焼きに入れるという発送が気に入らないと思うようなきがしていて、たい焼きはやっぱりあんこが入っているからたい焼きなんだよなって思っているのは、多分俺だけじゃないし、お祭りであらわれるテキ屋が、牛肉を駆使に挿して焼いたのを600円で売っているのもおかしいはずなんだよって誰かに言いたいと思っていたけど、言うべき相手が見つからない中、今日ここでその思いを吐露できただけで本当に今日という日は良い一日だったと思う。
いい日かにたま。悪い日、目ン玉。
了