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日記

半年弱 職業訓練校に通い退校した話。31歳、3回転職、今無職 4/6

2019/03/05

Contents

さわり

第四回は、職業訓練校編。それまでの記事は以下の通り。このページから読み始める方は先に以下から読むことを推奨。

  1. 31歳、転職を繰り返し、会社を3つ辞めて無職になった話。1/6
  2. 1年と少しで新卒で入った会社を退職した話。31歳、3回転職、今無職 2/6
  3. 5年ぴったりで外資系企業を退職した話。31歳、3回転職、今無職 3/6

このご時世、誰でも無職になりうる。そんな際に職業訓練校という選択肢もある。とある一つの体験談として参考にしてほしい。

無職の生活の始まり

2016年8月末で会社を辞めた。前記事で書いたとおり、職業訓練校に通うことを検討していたが、すぐに入校できるわけではなかったので、しばらくの間無職となる。

会社を辞めたら一人暮らしをしている必要もないので、即座に実家に引っ越した。それまで使っていた洗濯機や冷蔵庫などの大きな家電はすべて廃棄して、たいした荷物もないため、ハイエースを借りて一人ですべて実施した。一番大きな荷物はセミダブルベッドのマットレスで、これだけはかなりの重量があったが、そこは持ち前の気合でカバーして運び込んだ。ハイエースにすべてを積み込んでもかなりスペースに余裕があり、本当に自分はものをほとんど持っていないなと感じた。

退職日は8月31日だったが、最終出社日はちょうど海の日のあたりだった。新卒で働いた会社をやめたタイミングと偶然同じだった。じめじめとした梅雨も過ぎ去り、じりじりと照りつける日差しを感じ、そうしてまた無職となった。人生最後の夏休みは何度もやってくる。

引っ越しが済み、転居届や国民健康保険の切り替え申請、年金の手続きをした。紙切れの薄っぺらい保険証を手にしたとき、あらためて無職になったことを実感した。

ハローワークからはじまる職業訓練校への道

その後、会社から退職証明書のようなものが届くのを待ち、ハローワークに向かった。はじめてのハローワークだ。重たい空気が立ち込めているのかと思いきや、和やかな雰囲気だった。若い人も案外多く、それなりに賑わっていた。また、ちょうど中学生の職業体験を行っていたようで、中学生に案内されて窓口に向かった。この中学生たちはここに来て何を学んでいるんだろうか。ハローワークの業務だろうか。それとも、社会の多様性だろうか。

まずは所定の入力フォームに個人情報を書いて提出した。名前にはじまり、住所、前職の概要、年収、次の希望する職業などなど。その用紙を持っていくと、一つずつそれぞれの内容を確認しながらパソコンのデータベースに入力しているようだった。私はその用紙に職業訓練校に通うことを望んでいると書いていたので、すぐに職業訓練校とはなんぞやということろから入校の方法や手続きの説明を受けた。

ここで話を進める前に、職業訓練校について簡単に説明しておこう。

職業訓練校は、失業中の人が再就職するための公共職業訓練を行う施設です。国や自治体が主体となって運営しており、年間30万人に利用されています。

・簿記やパソコンから介護や建築まで幅広い講座が開設されている
・受講料は無料
・条件を満たせば補助金などの優遇が受けられる場合がある


求職者を対象とした最も一般的な公共職業訓練です。テキスト代などの実費を除き、受講料は基本的に無料
求職者は公共職業訓練の主対象であり、条件を満たせば失業保険の受給期間延長や通所手当(交通費)の交付などの援助が受けられます。

職業訓練校とは|お金をもらいながら資格が取れるって本当?|転職Hacks

要するに、国の補助を受けながら無料で学習ができ、かつ条件を満たせば手当が支給される制度だ。

この学校は各都道府県のそれぞれの地域ごとに設置されている。学校によって受講できる内容は様々で、IT関連、簿記、溶接、旋盤加工など複数ある中から選択できる。コースは町の特色に影響されており、工業都市であれば電気関連や、加工関連が多く、都市部であればIT関連などが充実している。

私の実家かから通えるのは静岡県の浜松市の職業訓練校だった。浜松市は、ヤマハ、スズキ、ホンダなどの工場がある工業が盛んな都市で、受講できるコースは工業系が多かった。しかしながら、あまり手先が器用でないので事務系の役に立ちそうな講座を探した。

簿記関連もあった気がするが、独学でもなんとでもなる上にある程度の知識が既にあったので、他を探した。その中で目を引いたのは、広告デザイン科だった。商業用の広告作成の方法やデザインの基礎から学べるとのことで、興味をひいた。

もう一つ面白そうだったのは、庭師の講座だ。どんなにいい天気でも、今までほとんど屋内にこもっている仕事ばかりしていたため、気持ちよくいい汗をながしながら働くのも悪くなさそうだった。またそれまで肉体労働をしたことがなく、運動不足に悩まされていたので、仕事で解消することができれば一石二鳥ではと思った。

そんな話を親父にしてみたら、夏場は虫も多いし日差しが辛いぞ、できるのかと言われ、確かにそうだなあと思い庭師の道を断った。しんどいのは良くない。

そんなこんなで広告デザイン科に願書を出すことに決めた。この無職の学校に通うためには志望動機や懐かしの自己PRなどを書かなければならない。割としっかりとしたものを書かなければならないらしく、ハローワークの職員の添削を何度か受け、ようやく提出することができた。

職業訓練校入学試験

提出が済むと、今度は入学試験がある。なかなか大変そうだ。基礎学力試験と更に実技試験もある。もちろん面接もセットだ。加えて作品がある人はポートフォリオを持ち込んでもいいらしい。作品など作ったことがない。強いて言えば兄のウェブサイトを作成したことがあるくらいだった。なにもないよりはあったほうがいいだろうと思い、自分が作ったウェブページをコンビニプリントして準備した。

試験当日。服装は自由とのことだったが、ぐぐる先生で調べてみるとスーツが無難ということだったので、ひさびさにビシッと決めて試験に向かった。試験の会場には、募集人数12名に対して倍くらいの受験者がいた。倍率はそれなりに高そうだ。デザインということもあり男女比は男:女=4:6くらいだった。なかにはスーツではなくラフな私服のあんちゃんもいて、彼はおそらくだめだろうなあ、なんて思っていた。

まずは基礎学力試験からだった。中学生レベルの数学や小学生レベルの社会の知識が問われたような記憶がある。地図記号でわからないものがいくつかあったが、特に問題がなく終えた。

問題は実技だ。絵などほとんど書いたことがない。デッサンなどと言われたらどうしようかと思っていたが、どちらかというと空間把握能力の試験に近く、まずまずのできだった。

最後に面接が待ち構えていた。ありがちな志望動機やら何やらの質問を受けた。あらかじめ用意していた内容を答えた。面接は終始和やかな雰囲気だった。自分が作成したウェブサイトのデザインについても特に深掘りされず、たんたんと試験は終わった。

まず大丈夫だろうと思い、結果を待った。それから二週間もたたないくらいで合格通知が届き、無職の学校、職業訓練校に通うことになった。大学生の夏休みが終わる10月の頭から、 30歳間近にして 新たな学生生活が始まった。

広告デザイン科での学習

入校式には、なんとあのラフなあんちゃんも来ていた。今回は式ということもありきちんとスーツを着ていた。男は自分と彼だけだった。初日は式と今後の時間割の説明くらいで終わり、どっさりと教科書と必要な用具を受け取った。本当に学生の入学式の後のようだった。

はじめは座学が中心だった。広告の歴史、デザインの基礎、色の基礎などを学んだ。しばらくして実技が始まった。広告作成はPCを使って行われるのが現在は一般的だが、その学校ではまず手書きで線を引いたり、多面体を書いたりする練習からだった。これはもしかして時代遅れの講習なのかもしれないと考えながらも、基礎が必要ということで取り組んだ。

数週間するとまるで本当の学校のように宿題が出るようになった。写真を取ってくるだったり、デザイン案を考えてくるだったり、調べ物をしてくるだったりと量が次第に増えていった。受講生の能力は人それぞれで、徐々に宿題や進行の速度についていけない人たちがではじめた。一部は大変だといいながらも、問題なくこなしていた。あとから聞いてみたら、うまくこなしている人たちは既にデザインの実務を経験していたり、美術大学を卒業していたりした。受講者のコースに対してのレベルの差が最も広いのはこの広告デザイン科だっただろう。

受講開始してから二ヶ月ほどたった頃、宿題の提出をしなかった受講者がいた。なぜ提出できないのかという講師の問いに、時間内にすべて終わらせることができなかったと彼女は答えた。それに対して講師は、昨晩睡眠をとったのか、寝る暇があるなら仕上げて提出をしろと、冗談で言っているとは思えない真剣な顔で説教をしていた。続けてこうも言っていた。仕事をしている頃に比べれば、これくらい楽なものだろうと。いや、そんな働き方はしたことがないなとか思いながら横で聞いていた。

時代遅れなのは、学校や講師といった全体的な体制なのではとここでは感じたが、そうではないようだ。講師(デザインでご飯を食べていると言っている人たち)の話によると、広告デザイン業界というのは寝る間を惜しんで働く人たちで構成されているらしい。未だに、労働力のダンピングをしながら小さなパイを食い合っているようだ。

激務薄給と噂の高いアニメーターの業界と背景は似ているように思える。 その業務を志望する人材は掃いては捨てるほどおり、 労働市場における供給側のほうが需要を上回っている。その結果、待遇改善の必要が生まれず他業界に比べて問題のある労働環境が続いているのかもしれない。

ここで講師が言っていることが事実であれば、その業態についていけない受講生に無理なことを言うのは悪くないのかもしれない。なぜならば、実務についてそんな仕打ちが待っていれば結局ものにはならず続かないからだ。

12月のあるタイミングで一人が不登校になり 、一人が休みがちになってきた。私自身も、山ほどある宿題の量に対応ができなくなりつつあった。それが限界を迎えそうに感じた年末、12月の終わりに学校を辞めることにした。その後聞いてみると私が辞めたあとに、3人辞めたそうだ。なかなか無理のあるプログラムだった。なお、私の世代のあとはこの講座自体がなくなった。想像ではあるが、再就職を目指す場所であるはずなのに、全体の1/3がドロップアウトしている問題のある講座として捉えられていたのではないかと思う。

無職では実家にいづらいので、就職活動をそこからはじめた。いくつか適当に応募をして近場に今までの経験が活かせそうなところがあったので応募した。さくっと内定が得られたので、とりあえず無職実家生活を脱出するために、また働き始めることとした。

結びに

無職の学校もまた途中で辞めたが、学んだ事自体はそれなりに役に立っている。フォトショップの使い方講座や、基礎デザインは動画制作に若干役立っているように思える。

こうして、また会社員生活に戻ることになった。次はどの程度がんばれたのか。その続きは次の更新にて。2年ぴったりで中小企業を退職した話。31歳、3回転職、今無職 5/6

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