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日記

成功した結果に飛んでいく妄想。八割成功の恐怖。

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うまく言った未来に飛んでいないかな。

最近はないがその昔よくこんなことを考えていた。例えばほぼ確実に合格することがわかっている高校受験や、ほぼ確実に優勝できるスポーツの大会の前には、どうせうまくいくんだからうまくいった未来に時間移動できないかなと思っていた。ほぼ確実というのは、主観的に見て八割方はいけるという感覚のことだ。

何もしないで時間だけ飛ぶのではなく、この未来の延長線上で起こることがそのまま起きていった結果にたどり着くように時間を超えたいと思っていた。ちょうど何の意識もない自動操作モードでこの嫌な時期を通り越したいと。その嫌な時の記憶が残っていもいなくてもいいから、とにかくそこを超えられたらと漠然と考えることが多かった。

八割方いけるなら心配することもないし、とっとと未来に飛ぶ妄想もする必要がないかと思われるかもしれないが、そうではない。むしろ、そのくらいの簡単に超えられそうな課題のほうが、心配になるしストレスを感じる。

たぶん簡単であると認識している課題であるからこそ、失敗を恐れているのだろう。自分自身に抱いている期待感を自分自身の行為で裏切ることを考えると居ても立ってもいられなくなる。周りからの評価も気になっているのかもしれない。人からの失望を目にするのも辛いものだ。

これが、例えば五割くらいの成功の可能性であるならいい。失敗しても成功しても、なんというか運によって導かれた結果だと思える。その結果に対して、自分自身の責任がずいぶんと遠ざかるように感じる。うまくいったらラッキー、うまくいかなかったらアンラッキー。本当は両者ともに努力次第でなんとでも変わる部分はあると思うが、心持ちが違う。

それよりもずっと低い成功の可能性であれば、失敗しても納得できる。だからその結果を見る前に不安になることもない。しょうがないの一言で片がつくとわかっているからだ。

そういった意味で八割というのは、精神的に一番つらいような気がする。九割まできたら安心感が出てくる。このあたりの細かい数字は人によって変わるかもしれないが、みんなこの数字への感覚は似通っているのではないかと思う。

最近は未来に飛びたいとも思わない。

いつしか、そんな妄想をすることもなくなった。単純に想像力がなくなってきているのかと思ったが、それだけでもなかろう。

一番の違いは、「うまくいく未来」という形が見えないことにあると思う。若い時に何かに対して猪突猛進で全力で突っ走ることができたのは、絶対的な価値観としての成功像が、わかりやすい形で常に明示されてきたからだ。例えば、学校の勉強。試験で高得点を取って志望校の合格を目指すことがひとつの学校生活の完成された目標だった。例えば、部活の大会。勝利に結びつく練習をしこたまして、本番で実力を発揮して勝てるところまで勝つことが目標だった。

その組織に入れば、その組織の掲げる目標をあたかもずっと昔から持っていたもののように、自分のものとして取り入れることができた。

ところが一転、大学生くらいになると外部からの強烈なプレッシャーによって何が正しくて、目指すべきなのかといった観念がほとんど無くなる。社会人になってもそれは変わらない。会社という組織の一員となったとしても、部活動の練習のように休む暇を惜しんでまでも、仕事に打ち込みたいとは思わない。

成功像が描くなくなったのはなぜだろうか。

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