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自分探しの旅も悪くないかもしれない、と思った。

親父の会社に行ってきた。ウェブサイト制作の依頼を受けていたので、その簡単な説明をする必要があると思ったからだ。

年齢は70近いが、親父は数年前に起業した。わざわざ事務所まで借りて、初期投資をそれなりにしていたものの、最初の数年は鳴かず飛ばずでようやく今年大きな案件を獲得したらしい。数週間前に珍しく電話があり嬉しそうに話していた。

電話でも話のさわりは、ウェブサイトを作って欲しいということであったが、実質ほとんど自慢話で、よほどほっとしたんだなと思うと同時に、ウェブサイト自体はそれほど力を入れていないように感じた。とりあえず作ると約束だけして、だらだらと二週間ほど経ってからようやくそれらしい形を完成させた。ウェブサイトの納品なら別にメールだけでも済む話ではあるが、メールもまともに使えなさそうだったので実際に行くこととした。

私の家から事務所までは一時間もかからない。電車で30分もすれば最寄りの駅に着く。駅のロータリーで親父は車で待っていた。その車に乗って事務所に向かった。車の中で電話で聞いた話を繰り返し聞かされた。かなりの心労から開放されて心底安堵しているようだったので、同じ話でも何度も聞くことにした。

それが終わると今度は私の話になった。無職になって数ヶ月経っているのは知っているようで、昼間はなにをしているのかとか、ゲームの先生はまだやっているのか、いくら位稼げているのかなど聞かれた。昼間はプールに行って泳いで、暇があれば読書にふけり、ゴロゴロしているだけだと伝えたら、親父は自分探しの旅を続けても本当の自分なんてものはないと、突然話し始めた。

そういえば、仕事が面白くないから辞めたいなんて話したときにも同じようなことを聞かされたような気がする。どうやら親父には今の自分の状況が自分探しをしているように見えているらしい。一般的に自分探しの旅というのは、社会に適合できないが、自分の何らかの特性を生かして、別の形で適合することを目指す活動でだという建前で、その実、散財をし人生を謳歌することだというふうに理解しているが、今の自分の状況はそれとは程遠い。

というよりも、自分探しの旅はすでに終わったと感じている。まだ自分探しの旅の定番の海外放浪や日本一周をまだ終えていないのに、勝手に終わったなんて思わないでほしいと全国の自分が探しをしている若者たちから避難されるかもしれない。だが、約10年の会社員生活で十分に自分探しの旅をすることができたと思う。放浪するよりもずっと、会社に勤めることは自分を探すことに適した方法だと思える。

よくある自分探しの旅というのは、どちらかと言えば自身のポジティブな面を探すことが多い。例えば、新たな発見や体験から自分がより興味を持っていることを探すであったり、才能を発掘するであったり、好きなことを見つける活動に近い。しかしながら、自分自身が本当にこれが好きだというものに出会うのは本当に難しい。それでいてかつ、それが社会的に評価されて飯のタネになるケースというのまずない。自分探しというのが成功しえない、周りから鼻で笑われるような行為であるのは、それが結局実るものでないことがほぼわかっているからだろう。

その一方で、会社勤めでできる自分探しはネガティブな面を探すことができる。組織に属すると自分がやりたくないことや、信念に反すること、あるいは無意識的に避けたいと思っていることをせざるを得ない場面が現れる。例えば、長時間拘束による自由時間の減少や、倫理、場合によっては法に触れそうな内容の業務に関わること、明らかに非効率的で無駄な業務の遂行など、枚挙にいとまがない。様々な経験をすると、思っていたよりもこの業務は嫌だなであったり、想像していたよりもこれは辛くないなといったことが見えてくる。一般的に長時間労働は嫌われる傾向にあるが、時間ではなく馬鹿げた業務内容のほうが気に入らなかったり、人間関係に対して自分はシビアな面があるであったりということがわかってくる。

給料に関してもそうだ。新卒で会社を選ぶときには給料面というのは誰もが考慮する項目のひとつではあると思うが、実際に働き始めるとそうではない場合もある。私も新卒、二社目とそれなりに給料面というのは考慮していて、平均的な水準よりは多く稼いでいたが、別段給料に関して満足感というのはなかった。というのは、ほとんど使うあてがなく、その金を活用していなかったからだ。物欲自体がほぼまったくない上に、倹約家でもあるので貯金は溜まっていく一方だった。ディスプレイに表示されるネットバンキングの貯金額が一千万円を超えたときには、少し達成感と言うか感慨深いものがあったが、結局はただの数字で自身の生活の質や満足度にはそれほど関係しなかった。もちろん、一定金額を下回った場合には、問題になるだろうと思われるので全くの無関与というわけではないないが、ボーナスが出るたびに散財をしたくなるタイプの人間と同様の給料水準を追い求めるのは理にかなわないと感じた。そういったことが理解できるのは、実際に会社という組織に属して働いていたからだ。

組織に属すると、何らかの形で自分を変容させる必要がある。完全に自分の要望と一致するような生活が待っていることはまずないだろう。その組織への順応を強制されたときに、受け入れて変容できるのか、それとも強く反発してしまうのか、その反応から自分自身の社会あるいは組織への耐性が測れるし、同時に自分のまだ知らない自分を発見できると思う。

そんな自分探しを終えているということを親父に伝えてもきっと伝わらないだろうと思い、自分探しの是非について同意も否定もせず、そうかと受け流した。

その一方で純然たる自分探しの旅的なこともいいかなとも思った。私に限らずであろうが、これまでほとんどのケースでやりたいことではなくできることを選択してきた。そうするのが生きていくのには手っ取り早いし、能力的にそうせざるを得ないことも多い。

今はせっかく時間もあるし、どこかいっちゃいますか。

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