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日記

親しい人が死んだ時に別れの儀式は必要なのか?

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人の死。

人が死んだらもう会う必要ないと思っていた。会ったとしても言葉を交わすことはもうできないし、冷たくなった体を見るだけで何にもならないと思っていた。

昨日、祖母が亡くなった。その知らせを母から聞いたときには、やはり特に何も思わなかった。年齢的にも既に九十歳を超えているし、そろそろだろうとは思っていた。その時点で、祖母の死を受け入れることができたと思っていた。

しかし、そうではなかった。実際に亡くなった祖母と対面した時に、受け入れられていないことがはっきりとわかった。死というのは簡単に通り越すことができないものだと思った。

今日は、そんな昨日起きたことを振り返りながら、死とその儀式について書いていきたい。

実家からの電話。

日曜日の朝九時半に実家から電話はかかってきた。社会人の休日の朝は遅いものと相場は決まっており、まだその時間はぐっすりと眠っていた。寝ぼけたまま電話に出たら、母からその日の早朝に祖母が亡くなったことが伝えられた。最初は理解するのにしばらく時間がかかったが、目が覚めてくるにつれて何が起きたのかわかってきた。

続けて母はこう言った。「今日、最後の挨拶をしてきなさい。」

読んでいる人にとっては、なぜ急にこんなことを言ったのかがわからないだろう。通常、誰かが死んだときには通夜や葬式の日取りが決められて、その日に別れの挨拶に向かうものだ。しかし、私はそういった宗教がらみの行事に参加したくないことを既に母に伝えていた。それに加えて、前述の通り死人と会っても何の意味もないとも言っていた。祖母にはとてもお世話になっていたし、よく顔も出していたし慕っていたので、決して不仲だから行く必要がないと思ったわけではなく、自身の死生観からそう考えていた。

それを理解した上で、通夜や葬儀などの形式じみたことは別にいいから最後のあいさつだけはしてきてほしいと説得された。最初はしぶったが、徐々に母の語気は強くなり、これは応じるしかないと思い行くと返事をした。

いつ頃からかはわからないし家庭によるのだろうが、親子の関係というのは保護者である親と守られる子供という間から、大人と大人の関係になると思う。対等に意見も言えば、議論もする。そんな間柄になっていくものだろう。しかし、その日の朝はそんな様子ではなかった。子供の頃の親子の関係に戻っていた。電話越しにも、強い思いとあの頃のような保護者としての義務感のようなものが感じ取れた。

しばらしくしてベッドから起き上がり、まずは実家に帰る準備を進めた。ちょうど実家でやることが会ったので、まずはそれを済ますことにした。私の家から実家までは約一時間半で到着する。祖母の家はその延長線上にあり、更に一時間半くらいかかる。

実家に戻る途中で香典袋を買うためにコンビニに寄った。葬儀に参列したのは、記憶がある限り祖父のもの一回限りだ。しかも小学生だったので詳しいことはほとんど覚えていない。とりあえずインターネットで香典袋のルールと金額なんかを調べた。間柄が祖母と孫であれば確か二十代は一万円、三十代は一から三万円、それ以上は更に増えるとのことだった。私はちょうど今三十歳だから、一万か三万くらいでいいはずだ。

香典袋コーナーを見るといくつものそれらしい袋が置かれていた。それぞれの説明を見てみると、どうやら宗派や中に入れる金額によって袋を変えなければいけないことがわかった。

そこには一万円を入れる袋と、一から三万円を入れる袋の二種類があった。一人ではどちらの袋がいいかなんて判断できないと思ったので、それら両方を買うことにした。たかが、百円程度だ。気にする必要はなかった。

実家に到着して。

実家に到着した。一年前にそこで両親と一時的ではあるが同居していたので、それほど大きな変化は感じ取れなかった。母は普段と特に変わらないように見えた。

祖母が何時頃に、どこで息を引き取ったのか、病状は何だったのかなどといくつか質問をした。その日の朝六時、自宅で老衰による死亡だったと答えた。そのときにも、事実として理解はできた。苦痛を伴わない死であればいいななんてことを言ったりした。

また、ちょうど自分が到着する少し前に兄とも連絡が着いたようで、一足先に東京から祖母の住む街まで新幹線で出発していると聞いた。東京からなら一時間もあれば到着するので兄が先につくのだろうと思った。母は兄にも自分同様の理由で、先に来るように段取りしたようだ。兄は自営業でその日が休日で、通夜や葬儀に合わせて休めないということを考慮して呼んだというのもあるだろう。

香典のことはそっちのけで、まずは実家で計画していた予定をこなすことにした。子供の頃の写真集めだ。このブログでは理由に関しての詳細は省くが、インターネット配信に必要なので、そのデータを集める作業をした。生まれたばかりの写真から、大学生になるまでの写真が丁寧に、しかも大量に保管されていた。これはいい素材があるなと、心躍りデータとしてiPhoneに収め、その一部を嬉々としてTwitterに上げたりなんかしていた。

アルバムの中には、祖母と写っているものもあり、なんだかとても懐かしかった。

一通りの写真を集め終わり、香典の準備を進めることにした。

香典はいくら入れればいいのか、どっちの袋がいいのかなんて相談を母にした。聞いてみると、香典をいくら入れるか兄もインターネットで調べたらしくその話を聞かせてくれた。

いわく、三十代は通常五万円だが、お世話になっているようなら十万円にするべきだというページが見つかったらしく、兄は世話になっているので十万円を包むと聞いた。私が調べた相場とずいぶん違うなと思ったが、どうでもよかった。こういった儀式に、しかも大金でもないのに細かいこと言うのは野暮だからだ。なら自分はいくら入れようかななんて考えていると、私は五万円にしておけと兄から通達があった聞かされた。七では中途半端だし、兄に比べると世話になっていないということで差をつけたのか、はたまた兄だから多く出そうと思ったのかはわからない。わからないが、それで良かった。昔からそういった決断力は絶対的に兄のほうが優れていたし、余計なことを考える必要もなくなった。

ただ、五万円の手持ちは流石になかったので、母からお金を借りることにした。そのお金を包み実家を去った。

祖母の家まで。

実家からしばらく歩いてまた駅まで戻った。そこから四十分も電車に乗っていれば祖母の家の最寄り駅に着く。

鈍行列車に乗った。日曜日の午後四時前で空いているかと思ったが、案外多くの人が乗っていた。実はこの方面に進む電車にはよく乗っていた。大学には自宅から通っており、祖母の家に向かう列車と全く同じ方面だった。なんだが嘘くさく聞こえるかもしれないが、電車のレールの音、橋を渡る時のがたんがたんという音の感覚がとても懐かしかった。

大学生の頃にもよく帰りに祖母の家に寄っていたことを思い出していた。更にさかのぼって、もっと小さな子供だった頃からこの列車は祖母の家に向かう道だった。あの頃は電車で四十分のちょっとした旅行だったが、今となってはただの退屈な移動になっていた。長い年月が流れたんだなと感じた。

電車の中では、どんな振る舞いをしようかなんて考えていた。祖母と同居しているおじに失礼がないように、迷惑をかけないようにしっかりしようなんて自分に言い聞かせていた。それと同時に、無理に感情的になったり、逆になろうとしなかったりすることはないようにしようとも思った。ありのまま全てを受けれたほうがいいんだろうなとぼんやりと着いたときのことを想像していた。

時間はあっという間に過ぎ去り、目的地の駅についた。

電車から降りて改札に向かった。この駅は田舎にしては大きく、改札が全部で(私が知る限り)三つある。一つは正面メイン、もう一つは駅ビルに続き、私が向かったのは食料品売場に続く改札だ。いつも食料品売場に向かう改札から、祖母の家に向かっていた。その道が一番近いということもあったし、いつもそこでちょっとしたお菓子やら何やらの手土産を買っていった。家族で何を買うか相談して向かうのが楽しかったの思い出した。

たくさんの食料品店を通り過ぎながらふと思った。ここを通るのは、これで最後かもしれないと。

祖母がいなければもう、この駅からこの道を進むこともないような気がした。更に歩みを進め駅ビルを出ると、見慣れた景色に出くわす。長い長い駐輪場が電車の線路に沿ってあって、その少し先に大きな交差点があって、その道路の真ん中にはちょっとした公園があって、料理の専門学校のビルがあって、その先には小さな神社があって、大きなマンションがあって、ガソリンスタンドがあって、そしてそのすぐ先に祖母の家がある。

その全てが懐かしく思えたのか、なんだか胸がざわざわしはじめた。

死んだ祖母と対面して。

祖母の家の前に到着した。祖母とおじの家は隣接していて、いつもであれば迷うことなく祖母の家のチャイムを鳴らしていた。ただ今日はどうしたらいいのか少し迷った。祖母の家には誰かいるのだろうか、どうしたらいいんだろうか。しばらく考えていると、祖母の買っていた犬がガラス越しに元気に動き回っているのが祖母の家から見えた。多分誰かいるはずだと思い、チャイムを鳴らした。

まず兄が出てきた。やはり先についていて、まだ残っていたようだった。それに遅れておじが現れた。おじに会うのはもう五年ぶりくらいになるのだろうか。あまり変化は感じられなかった。電車でいろいろと考えてはいたものの、何を話せばいいのかわからなくなり、とりあえず靴を脱ぎ家に入った。

おじから「おばあちゃんに顔を見せてやってくれ」と言われて、玄関から引き戸を一枚隔てた部屋に入った。

入って目に入ったのは、大きなベッドだった。そのベッドで祖母は眠っていた。

その安らかな寝顔を見たら、突然涙が溢れ出した。そのまま声を上げてむせび泣いていた。何も考えられなかった。悲しみなのか辛さなのかどんな感情だったのかさえもわからない。なにも言葉が頭をよぎらない。ただただ涙だけがあふれ出てくる。徐々に手先がしびれてきているのを感じた。

どれだけそうしていたのかわからないが、おじから線香をあげていってくれと言われたので、マッチでろうそくに火をつけて、線香をろうそくにかざして火をつけて、手を合わせて目をつぶった。

徐々に落ち着いてきて、祖母の顔を見た。本当にただ眠っているだけのようにしか見えなかった。それはそうだ、数時間前まで息があったのだから。更にしばらくしてようやく、祖母が亡くなった実感がわいてきた。徐々に悲しいという感情や寂しさがこみ上げてきた。

部屋は前に来たときから、大きなベッドを除いて大きな変化はなかった。そして、その部屋を見て、ここに来るのもこれが最後になるんだなと思った。いつそうなるのかはわからないが、祖母だけが住んでいたこの家は、祖母がいなくなればもう必要もなくなるのでしばらくしたら取り壊されるだろう。自分が子供の頃からよく遊びに来ていたこの場所がなくなると思うと、それもまた寂しく思った。

長居をしても迷惑なので、通夜と葬儀には参加できない旨を伝え、香典を渡してその場を兄とともに後にした。

兄と駅まで。

二人で来た道を戻った。兄と会うのも数年ぶりだし、この道を並んで歩くのはもう十数年、いや二十年以上前になると思う。祖母の話をしていたと思う。祖母が亡くなった、本当に世話になったなんて話をしながら歩いていた。

すぐに駅につき、せっかくだから飯でも食って帰ろうということになった。特に食欲もなかったので、適当に蕎麦屋に入った。

ようやく気持ちも落ち着き、蕎麦屋では最近の話をした。仕事はうまくいっているかだったり、健康状況はどうだなり。不思議と過去の話は出なかった。久しぶりに誰かと会うと、昔話ばかりしてしまうものだが、その日はそうではなかった。

こうやって飯を二人で食うのも久しぶりだったなんていいながら店を出た。次はいつだろうと私がつぶやくと、兄も両親のどちらかが死んだ時だろうなと誰に向かって言うともなくつぶやいた。私はそれに頷いた。

別に不仲なわけでもないが、このくらいの年齢になると何らかの重要な理由がなければ家族と会うことはなくなる。そういうものなのだろうと思う。

それぞれ別の方向に向かうので駅の改札で兄と別れた。元気でとお互いみじかく挨拶をした。しばらく会うことはないだろうと思う。

別れの儀式は必要だろう。

以上が、祖母の死んだ日に起こったことだ。この一日で自分の価値観は大きく変わった。

死人には会うべきだ。親しい間柄であればなおさらだ。

言葉では表現できない何か、感情の奥底に眠っているものは実際に会わなければわからない。今回の件で、どれだけ祖母が自分にとって重要な人であったかを「感じる」ことができた。それは今まで自分に何をしてくれたとか事実に基づく記憶ではなくて、もっと本能的な喪失感だろうと思う。

こんなに自分自身が泣くとは思わなかったし、悲しい気持ちを実感するとも会うまでは思わなかった。この経験を通じて、自分自身にとって何が大切なのか少し知ることができたのかもしれない。慣習を守ることや社会的な面子を保つことは、個人的にはそれほど大事だとは思っていない。何を信念として生きるかは、それぞれの自由だし、何を言われようと別に問題ない。ただ、納得のできる別れのためには、死者への挨拶は必要だと思う。

おそらく自分と同様に、葬儀やそういった儀式は面倒だから行きたくない人もいるだろう。そんな人こそ顔を出したほうがいい。予想外の結果が待っているかもしれない。

ただ、通夜や葬儀など堅苦しい格好をして、皆と会うのはやはり面倒だ。このブログはおそらく何らかの形で自分の親族の目にも着くかもしれないが、それでもいい。宗教的な行事は興味がない。拘束時間も長くて辛い。私と同じようにそんな考えを持っているようなら、無礼を承知で、ないしは何かしら理由をつけて宗教儀式の前に面会をお願いしてみたらいい。

余談。

収穫はそれだけでなかった。

最近感情の起伏もなく、何も新しいことはないなと感じていたが、やはりまだまだ知らないことはたくさんあるし、心を揺さぶられるものは多くあるんだろうと思う。そんな何かに、今度は悲しい話ではなく、出会えたらいいなと思う。少しだけ未来に希望が持てた。

まだまだ人生は捨てたものでもないかもしれない。おばあちゃんありがとう。

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