Zico39のいろいろ

Just another life

日記

想像の範囲によって限定された理想の暮らし

理想の暮らしを考えたことはあるだろうか。現状に不満がある人は、現実逃避の一環として無性に考えたくなるものであろうと思う。私自身もちょうど1年前くらい、つまり会社を辞める前後にはよくそんなことを考えていた。ゴールデンウィーク明けで梅雨入り前の最高の季節に会議室に缶詰になりながら、ぼんやりと理想を思い描いていた。

きっとあの部屋に飾られていたイルカのカレンダーのせいだろう。ほら、いるだろう。あの海の光を繊細に表現するあの画家だ。彼の作品が会議室の一番目立つところにいつもあった。それを見るたびに、今、小さな部屋にこもって、埒の開かない議論をしているのではなくて外に出たほうが良いのではないだろうかと思わされた。ちょうど彼の絵は実家にもよく飾られていた。いわゆる少年期の頃だ。今日よりも明日が楽しかった頃だと思う。過去の記憶というものは今となってはかなり不明確で嫌なことを忘れてしまっているせいで、楽しかった頃だと思っているだけかもしれない。ただ、香りや音楽同様に絵や視覚的な何かも、記憶を呼び起こすこし、今との比較を無意識のうちにしていたのだろうと思う。

さて、どんな暮らしが自分にとって最も理想的なのだろうか。内容に入る前に、まずここでの理想の定義をしたい。理想というのは、無限の資源があることを想定しているわけではない。つまり、資産面や健康面、社会的な面から見て、現実の延長線上として実現可能なラインでの理想的な生活を意識している。限りなく現実的に可能でありながら、それでも実際は難しそうにも見えて、暮らしとしては十分に満足できる、そんな程度の理想である。ちょうど現実と非現実の境目の非現実に少し足を踏み入れた世界であると言い換えてもいいだろう。私個人としては、何の制約もない理想というのはどうも考えにくい。それが、実現不可能だと知っているからなのか、思い浮かべたところでそれが無理であることを悟り失望が待っているのを恐れているからかわからないが、夢のような暮らしというのは想像したこともないかもしれない。もはや昔は夢があったのか、それとも昔も今と同じように想像力が欠如していたのかは全くわからない。ただ、そんなことを考えていた時期がないのもなんだか寂しいので、どこかで欠落したものだと思い込みたい。根拠もなく社会のせいだということしておきたい。

そんな限られた想定範囲ではあるが、その中での自分にとっての理想的な生活というのはこんなものだと思う。まず、やはり働かない、ないしは極力働かないというのは大前提として存在する。毎日適当な時間に起きて、週一くらいで図書館に通い読みたい本を借り、帰りにスーパーに寄って食材を買い、家で料理して食す。夜には、いつもどおりインターネット配信をしたりしなかったり、たまには友人と会ったり会わなかったり、ブログもたまには書いたりしながら日々を過ごす。たまには、どこかに出かけてみるもよし。もちろん天気が良い日を選んで。

こんなことを書くと、いきなり当初想定している実現可能そうなラインというのを無視しているように聞こえるかもしれない。しかし、これは案外そうではないと思う。ある程度の資産と僅かであったとしても定期的な収入があれば十分に実現可能であろう。毎日ご飯を食べて少しの楽しみがあり、それなりに過ごせるだろう。

ただ、もちろん結婚や正規雇用としての復職というのは極めて困難になる可能性が高い。一般的にはこれらは人間として求められている重要な要件であると考えられている節があると思う。だが、これらが本当にどれだけ重要であるかは、それぞれにおいてそれ相応に異なるものだろう。私にとっては、これらは別段重要とは思えない。前者に関してはその実現可能性もかなり低いものであろうと思うが、結婚をしたいとも思わない。こんな話をするとなぜ結婚したいと思わないのかなんて聞かれることもあるが、特に理由はないというのが正直なところだ。結婚にしても、恋愛にしても、趣味にしても質問した側の当人にはそうするべき理由があり疑問に思うのだろう。ただ、そもそも存在しないものは存在しない。強いていうならば、社会一般的にそれらが必要である認められいてるメリットに関して興味がない、または、価値があると感じないためであろう。後者についてはどうであろうか。長い人生設計を考える上で、安定した収入というのは極めて重要である。80や90まで生きようとすればそれなりの貯蓄だって必要だ。そういったことを目標とするならば、正規雇用で労働を続けるというのは、凡人にとっては必要条件であろう。では、この生きる想定年数をもっと短くしてみたらどうだろうか。そう、例えば思い切って半分の40年と仮定したらどうだろうか。必要となる資金はぐっと限られてくる。私は長生きに価値をおいていないので、ある限られた年齢、あるいは資金が尽きたときに自殺をするという選択をすることも十分に可能だろう。

そうであるならば、この理想の生活はすぐにでも実現可能なようにも見えるかもしれない。しかし、残念ながらそうでもない。この計画を選択するのにはちょっとした不安がつきまとう。それは、将来起こりうる気の迷いだ。驚くほどに考え方というのは年月を経るごとに変わっていく。例えば、新卒で入社した会社は絶対に辞めないようにしたいだとか、人の命は尊いものであるとか、大なり小なり昔は当然だと思っていたことがそうは思わなくなるということは山ほどある。もし、この理想的な暮らしを選択をして、その後何年かして社会一般的な考え方に傾倒していってしまったら悲劇だ。かつて捨てた選択肢を再度拾うことが限りなく難しくなるからだ。年齢的な問題もあれば、経歴的な問題もあろう。

この将来変わりうるという不安が、現実と非現実を隔てる膜となっているように思える。そんな妄想を糧に今日を生きている。

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